企画展・講座
2024/03/15
2月25日(日)、第94回まなべこ歴史文化講座
「絵図から探る城下町」
を開催いたしました。
今回の講座では近藤真佐夫先生に、浮世絵など広く様々な絵図から、人々の暮らしや建物の当時の姿などの解説をしていただき、当時と現在の町並みや、人々の生活の違いをみんなで考えました。
ご参加くださいました皆様、ありがとうございました。
会津若松市の城下町を描いた絵図は、戊辰戦争などで焼けてしまい数点しか残っていません。
下の絵図がその内の一つ、大須賀清光の「若松城下絵図」の一部です。
この絵図は江戸時代後期に描かれたもので、さらに細かくは、絵図には奉行諏方と奉行樋口とあるためこの二人が奉行の時、天保13年(1842)3月19日以前にかれたものという事が分かるそうです。
よく見ないと見逃してしまいそうですね。
1842年の会津は、八代藩主「松平容敬」の時代でした。
四年後には「松平容保」が養子になり、1853年にはペリーが来航します。
激動の時代に描かれた絵図だったんですね。
外堀に注目して見ていくと、全ての郭門が開いていないことや、郭門がクランク状になっていることが分かります。
クランクと言えば「大町札の辻」が思い出されますが、あちらは水路の水に勢いをつけ遠くまで流すためのもの、このクランク形状はお城への侵入を防ぐ事を目的としており、絵図で見ると郭門の建物が残っているため分かりやすいですね。
現在はクランク状の道のみが残されており分かりづらいかもしれませんが、会津若松市デジタルアーカイブの絵図を見て頂くと現在と過去の地図を見比べることができます。
郭内に注目していくと武士の住居を見ることができますね。
上級武士の家には藩主を出迎えるための門がついていました。
武士と言えば郭内に住んでいる方を想像されると思いますが、主に百石以上の上級武士が郭内に住んでいて、それ以外の下級武士は郭外に住んでいたそう。
郭外には庶民に勉強を教える寺子屋(南学館、北学館)があり、下級武士が字や計算の他、この時代の法令を張り出す「御触れ」の読み方なども教えていました。
上の絵図では黄色い〇のところです。
武士と庶民の交流はもう少し離れたものだと思っていましたが、勉強などを教えてくれていたなんて意外と近い距離感だったんですね。
現在では、郭内と郭外を分けていた土塁やお濠の跡が道路に姿を変えている場所もあり、上をなぞるように歩くことが出来ます。
郭門跡を探しながら散歩するのも面白そうだなと思いました。
庶民の暮らしについても解説して頂きました。
上の絵図も大須賀清光作の「会津千代松袖鑑 初編」の一部です。
現在は車が行き交う大町通りですが、この時代は沢山の人が行きかっていますね。
道幅も今よりずっと広く感じます。
一番手前の紫の枠で囲ってある所が高札場です。
以外と大きいなと感じます。石垣が積んであってしっかりした作りです。
ここに「御触れ」が張り出されていたんですね。
会津五街道の起点となっていた「札の辻」では、俵引きなどもおこなっていそう。
下の右の絵図も、大須賀清光の「若松城下絵図」で、七日町通を切り取ったものですが、中には関所が小さく描かれていますね。
この図では寺社仏閣が建物に埋もれるように描かれていますが、これは町屋のつくりとして寺社仏閣が道より奥にへこむような形で建てられ、その周りを取り囲むように商家が建てられていた為だそうで、現在でも、お寺や神社が奥まった場所に建てられているのは、その名残なんですね。
ところで七日町と言う名前、現在は地名を表していますが、この時代は南北の道を、”通”と言い、東西の道を、”丁”や、一、二、と数字をつけて呼んでいたそうです。
今とはずいぶん場所の認識の仕方が違ったのかもしれませんね。
視覚的であったり、史料的なお話以外にも、匂いについてのお話も少しありました。
明り取りに使われた油はイワシなどの魚から取ったものが安く出回っていたそうで、ちょっと煙たい魚のにおいがまちなかに漂っていたかもしれませんね。
匂いが想像できると、ぐっと生活感が出てきますよね。
その他にも浮世絵から見る食文化やペットブーム、町廻り三十三観音などの信仰についてなど、盛りだくさんの内容でした。
絵図を見ながらお話を聞くことで、脳内の解像度が上がったような気がしますね。
「若松城下絵図」は会津若松市デジタルアーカイブ内で見ることができますので、じっくり見てみてくださいね。
お越し下さった皆様、ありがとうございました。
次回は「民俗講座 学んで聴く会津の民謡」です。
森川貞治さんと、会津民謡「いろは会」の皆さんに解説して頂き、実際に演奏を聞かせて頂ける講座となっています。
次回もみなさまのご参加お待ちしております。